セカンドレイプという言葉を聞いたことがあるだろうか?性被害にあった被害者に対して、「被害にあったのは自分の態度や服装のせいではないか」などと責めることによる二次被害のことである。
伊藤詩織さんが、性被害を訴えた際にもネットやメディアで「被害者がこんなに堂々と訴えるわけがない」というようなセカンドレイプが多く流れていた。
セカンドレイプはなぜ起こってしまうのか?なぜそれが許されることではないのかを考えてみたい。
【もっと自衛できたんじゃない?】
とても残念ながら、よく聞くセカンドレイプとして多いのが「露出の多い恰好をしていた」、「遅い時間に一人で歩いていた」、「夜の仕事をしていた」といった、被害者の服装や態度を責めるような言説だ。
例え、露出度の高い服装をした、夜の仕事をしている女性がプライベートで男性の部屋についていったとしても、彼女が「NO」といえばそれは絶対的に「NO」なのだ。嫌だというふりをしているのかも、とか、嫌ならそんな恰好でついてくるな、とか、そんな仕事してるんだからいいだろう、とかいう考えはすべて都合のよい言い訳だ。
どんな仕事でもどんな服装でも、それがイコール「同意のないセックスしていい」ことには絶対的に繋がらない。
なぜか、女性同士でも風俗に携わる女性や性的に奔放な女性に対して自分とは違う「そういう人たち」という別のカテゴリーに分けて見てしまうことがある。
そして「そういう人たち」は特に、「もっと自衛できたんじゃないか」と批判される対象になってしまうのだ。
夜道でスマホを見ながら歩いていて、強盗にあったとしても、悪いのは強盗であり、被害者の落ち度を責めるのは間違っている。
「自衛」を求めることでのセカンドレイプは「ひどい目にあうことは恥だ」「自分の注意がたりないからこんな目にあうのだ」という自己責任論に被害者を追い詰めてしまう。
【被害者の態度】
性被害にあった被害者は「恥ずかしい」と感じて、黙って泣いているはずだ。テレビに出て笑顔など見せるはずがない、というのも被害者に対するセカンドレイプであり、なんなら被害者の口を閉ざさせるような許されない言説だと思う。
伊藤詩織さんが性被害を訴える際に出演した、イギリスのBBCの取材に答えている映像は多くのSNSでセカンドレイプの対象となった。英語ではきはきと話し、時には笑顔も見せながら堂々と話す彼女に対して、「レイプ被害者は笑って話さない」などという言葉が浴びせられたのだ。
性被害にあった人は暗い部屋でずっと閉じこもって泣いているべきだとでも言うのだろうか?ただでさえ、取り調べや裁判では思い出したくもないことを詳細に話さなければいけないという辛さがあるのに、私生活でも「被害者らしく」していなければいけないのだろうか。
いつ悲しんで、いつ落ち込んで、いつ笑って、いつ楽しむかは「個人」が決めることであり、周りが好き勝手に「こういう人はこうあるべき」と押し付けるべきではない。
伊藤詩織さんが性被害を告発し、自分を誹謗中傷した人々をも告訴しているのは、もちろん自分自身を守るためでもあるだろうが、他の性被害を受けた人々に「黙らなくていい」という強いメッセージを発しているように思う。
【冤罪への恐れ】
性暴力の被害(レイプだけではなく痴漢なども性暴力に含む)でよく出る話は、「冤罪の可能性」だろう。やってもいないことで罰せられるのは誰だって怖い。冤罪への恐怖はあって当然だろうし、男性が満員電車に乗るのが怖いという声もよくわかる。
しかし、性暴力について考える際に、「冤罪はどうなんだ」という意見は論点のすり替えである。冤罪の問題は冤罪の問題として考える必要があるが、性被害の話とセットのように出てくるのは被害者の声を黙らせてしまう可能性がある。
有罪か無罪かを判断するのは一般人でも、加害者でもなく、司法である。司法が機能しているかというのは別の議論が必要だと思うが、少なくとも強盗被害にあった被害者が「冤罪になるかもしれないから」といって口を閉ざさないのと同じように、性被害も「犯罪なのだ」という認識を強く持つべきだと思う。
近年の#Me too運動で気づいたことだが、今まで性被害だと認識していなかったことも、実は性被害なのだと認識することがあった。それだけ「性被害」という枠組みが自分の中で狭かったことにも驚いた。更には、どれだけ「被害にあうのは自分のせいではない」と考えていても、「もしかしたらあの時こうしていたら」と考えてしまうこともあるのだと気が付いた。それだけ性被害に関することは自分を責めたり、黙ったりしてしまいがちな中で、セカンドレイプが被害者を黙らせることを加速させるのはあってはならない。