私だけの英語

筆者:Kyoko Kubono

実のところ、私はテンプル大学ジャパンキャンパス(以下TUJ)や日本で英語を話すことが好きではありません。大学で日本人や外国人に「英語が上手だね」と言われるたびに、複雑な気持ちになっていました。日本の文化で生きてきた人には、「あなたは『訛りが強い』けど、自然に英語を話しているね」とか、「ああ、イギリス訛りだね」と言われたこともあります。どちらのコメントも、日本人がいかに「アメリカ英語」を標準語のように思っているかを示しています。他のアクセントまるで良くないと言っているような気がしてイライラすることもありました。日本の文化以外で育った人は、 「うわー、あなたの英語は本当に上手だね!」とか、「あぁ、それは—Rrrって意味なの?(girlなどrがある言葉を言った時)」と言われると、前者のコメントは、赤ちゃんやペットを褒めるように大げさに言ってきたりして、気まずい思いをすることがよくありました。後者のコメントでは、私が言ったことを真似して、自分なりに繰り返したり、何度も何度も繰り返すように言われたりしてよく動揺しました。私は英語を話すときに間違えることが多いと自覚しているので、まだそのようなコメントを完全には克服できていません。しかし、定期的に電話をしている友人のおかげで、自分の不安に対処することができるようになりました。そこで、私の英語に対する見方を変えてくれた友人との会話をいくつか紹介したいと思います。

 

まず最初に、日本のアメリカ化とTUJについて私の考えを述べたいと思います。私は中学・高校に行った時、日本の英語の教科書のCDが北アメリカのアクセントに限定されていたので、何を言っているのか理解するのに苦労していました。友人の中には、イギリスの英語の先生が大学で何を言っているのか理解するのが難しいと言っていた人もいました。日本人の英語学習がいかにアメリカ英語中心かがわかります。また、英語のテストでは、”-ise “の代わりに”-ize “を使ったり、colo “u “rのように “u “を排除したりしていないために、点数が下がることもありました。ある先生にはここは日本で、アメリカ英語を標準として教えているんだから、私がアメリカ英語のスペリングや文法に従うべきだと言われたこともあります。もう一つ不思議に思ったのは、人々はいつも「TOEIC」や「TOEFL」のスコアの話をしているのに、ブリティッシュ・カウンシル、DP: IELTS Australia、ケンブリッジ・アセスメント・イングリッシュが運営する「IELTS」の話をしないことです。一方、「TOEIC」や「TOEFL」は、アメリカに本社を置くESTが運営しています。このように、日本の英語教育はかなりアメリカ寄りだと私は考えています。

 

TUJに関しては、東京に拠点を置くアメリカの大学ということもあり、日本人学生はアメリカの文化や政治に興味を持っているように感じます。しかし、その一方で、日本人学生の割合がアメリカの大学に比べて相対的に多いこともあってか、外国人に対する固定観念を克服できていない学生もいます。 一方で、外国人は必ずしも日本の大学の留学生ほど日本社会に浸っているわけではないので、日本人が外国人に対してするように日本人に対する固定観念をそのまま持ち続ける人も中にはいると思います。当然、それぞれのグループ同士で集まり、異なるグループの人たちと交流することは少なくなります。「インターナショナル」な学校なのに、日本人と外国人のグループがこんなにも分断されているという話をたまに聞きました。それは確かにそうなのですが、相手に自分たちの文化に合わせて行動してくれることを期待して、双方が受け身になってしまった結果だと思います。私はアメリカの文化に特別興味があるわけではありませんが、文化に関係なく面白い人の話を聞いたり話したりするのが好きなので、大学では日本人学生のコミュニティにも外国人学生のコミュニティにも属しているとは感じられません。信じられないかもしれませんが、私はこのことをずっと真剣に悩んでいたのですが、結局、大学では周辺的な存在になってしまっていますが、良い友人や尊敬する教授もいるので、考えすぎるのはやめました。

 

授業で知り合った私の友人は、人の話を聞いたり、質問をしたり、実際に何に苦労しているのか気づかせてあげたりするのがとても上手だと思います。私は自分を守るために「私はちょっと変な風に英語を話す」とよく彼女に言っていたので、彼女が私が自分の英語にとても不安を感じていることをすでに知っていました。そのため、電話し始めた最初のころは、ニュージーランドでの生活や、どのようにして英語を学んできたのかをよく聞かれました。正直言って、彼女の質問は自分の英語に関するトラウマを思い出させるものでもあり、抵抗がありました。しかし、振り返ってみると、自分の不安の原因を探り、その記憶を俯瞰的に見つめ直し、疑問を抱くことができました。例えば、中学時代には、アメリカからの帰国子女がスーパースターであるというイメージを内在化し、自分の英語をおかしいと思うようになりました。英語に対する不安の原因を知ることで、心理的に自分を打ちのめすことを避けられるようになり、また、英語に対してイライラした時にも本当にそうなのかと疑問を投げかけることができるようになりました。ネガティブ思考に陥らないようになったことで、自分にかけていた呪いから少し解放されたような気がします。さらに、私の勝手な思い込みで申し訳ないと思っていたことの一つに、彼女が「英語の上達のためにオンライン英会話を受講している」と言うまでは、彼女が英語に苦手意識がないと思っていたことです。深く話をしないと、相手を理解することができないということを実感しました。簡単に言えば、他者からどう思われようが、自分の全体像は全く見えていないのだから、他者のコメントを気にしても無駄だし、意味がないということです。それ以来、他者に自分の気持ちを押し付けられることなく、彼らの自分への判断を聞くことができるようになりました。また、他の人に対して思い込みをもって接することは、自分自身が日本社会で構築されたカテゴリーに基づいて自分を見ているということでもあります。だから、無意識のうちに他人への期待、ひいては自分自身への期待から解放されるためには、できるだけ心を開く訓練が必要だと思いました。

 

もう一つ友人に言われて面白かったのは、イギリス英語の理解に苦労している彼女と違って、私はどんなアクセントでも理解できていて、lやrの発音も上手だと言われたことです。一方で、文法的なミスもなく、アメリカ人のような英語を話せる彼女には、ちょっと嫉妬していたのですが、彼女自身は自分の英語にミスがあることに気づいていると言っていました。そこで思ったのは、人が英語力のどの部分を重視するかは、個人差や理想像によって全く違うことに気がつきました。私は、自分の英語力を口頭での流暢さと文法だけで評価することにこだわっていました。特に大学に入って最初の数学期は、授業中に発言することを「授業への参加」として重視していたため、そのような考えにとらわれていたように思います。しかし、彼女のコメントをきっかけに、自分の英語力を様々な要素で見直すことができ、特に今まで自分では考えしなかったリスニング力を見直すことができました。また、誰にでもそれぞれの葛藤があることを知り、自分は一人じゃないんだなということをより鮮明に感じ、自己中心的だった自分が恥ずかしくなりました。さらに、彼女と話をしているうちに、私が嫌なことをせず、仮にお互いに対する思い込みがあっても、安心してそれについて話ができ、明確にしたりして、お互いの新しい部分を知ることができることに気がつきました。自分が安心できない人や居心地の悪い人と仲良くなろうと頑張らなくてもいいんだと思えるようになりました。日本でもニュージーランドでも、礼儀正しくいることが大切だと学びました。とはいえ、私は礼儀正しくありたいという完璧主義的なイメージを作ってしまい、誰に対しても親切な人でありたいと思うことで自分を傷つけていました。それよりも、誰と仲良くするかは自分で決める権限があること、私が自分らしくいられない人と仲良くなろうと頑張らなくてもいいんだということを自分に言い聞かせたいと思いました。

 

結論から言うと、英語に対する不安で落ち込むこともあるかもしれませんが、今は自分が何者なのか、英語は自分の一部であることを自分自身が知っています。結局、それだけで十分なのだと思いました。自分のことを他人に理解してもらうことを切望するよりも、仲の良い友達とおしゃべりをしてお互いをより理解するように努力することの大切さを知りました。そして、もし誰かが彼らの基準をもとに私のことを判断したしたとしても、それは単にその人が自分の基準で苦しんでいるのだということも気づきました。私は、相手の思い込みに合わないことに対して申し訳ないと思いたくないです。むしろ、その相手の私に対する思い込みを手放して、ただ自分自身でありたいと思っています。それと同時に、自分の英語に否定的な自分を責めるのは、自分に基準を設けていることになるので、不健全だと思います。それよりも、自分のペースで成長して、昔の自分と今の自分を比較していくべきだと思います。つまり、自分の英語力でイライラしたり、他人からの批判の無価値さを自覚したりするのも自分の一部であり、それはそれでいいとも思っています。アクティビズムの一つとして自分なりの英語を話し続けていくことで、英語はこうでなくてはいけないという人々が持つ規範に疑問を投げかけていきたいと思います。