ミュージカルと社会

 

私はミュージカルが好きだ。なぜか幼少期から実家にはミュージカル関連のビデオがあったりして、何度も繰り返し見ていた。特に10歳くらいからは宝塚にはまったのをきっかけに、様々なミュージカルを見てきたと思う。

修士課程の研究テーマでも、ミュージカルを扱いたいと思ったのは自然な流れだったのかもしれない。ブロードウェイにおけるユダヤ人アイデンティティ表象が修士論文のテーマだった。

さて、「フェミニズムと葛藤」というブログでも書いたのだが、好きなもののジェンダー表象が見えてしまって「好きだけど批判的に見てしまう」という矛盾とはミュージカル好きとしてはずっと付き合っていく必要があるように思う。

最近のミュージカルではRentやHairspray、Kinky Bootsなどでも性や人種、見た目や体形といった多様性を受け入れ、みんな違っていてもいいんだというメッセージを発するものも多くなってきた。

しかし、私が好きなクラシックのミュージカルは、やはり伝統的なステレオタイプを再生産しているものがほとんどだ。

オクラホマやサウスパシフィック、ミスサイゴンといったミュージカルでは人種やジェンダーのステレオタイプな表象がたくさん出てきている。

数十年ぶりに見た、映画「アニー」(1982年版)にも、インド人やアジア人に対するステレオタイプな表象や女性軽視的な描写が見て取れる。

とはいえ、アニーの楽曲はどれもすばらしく、何度見ても感動するのも事実だ。出演している役者も素晴らしく、演技派のCarol Burnettやダンサーとしても一流のAnne Reinkingなどが、映画のクオリティを高めている。

さて、久しぶりにアニーを見直して思ったのが、今の時代と照らし合わせて見ると時代背景が重なって面白い。

アニーの舞台は1933年のNYである。1929年の大恐慌のあおりを受けて、孤児や失業者がたくさんいたり、NYの貧しい状況が描かれる。ある大富豪が自己PRのために、1週間孤児を自宅に招いて過ごすのに、アニーが選ばれ、アニーの明るく前向きな性格に心をほだされた大富豪が彼女を養子に迎えるという話なのだが、大富豪の友人という設定で当時の大統領であるルーズベルトが劇中に登場する。(もちろん本人ではない)

その場面で歌われるのが有名な「Tomorrow」なのだが、ここの設定が面白い。

ルーズベルト大統領といえば、大恐慌時代にニューディール政策を実施し、多くの失業者に公共事業を提供した、大きな政府(政府が社会福祉に積極的に取り組むこと)の代名詞のような人である。一方、大富豪のウォーバックス氏はルーズベルトのやり方に反対で、新自由主義的な資本主義の形を信じている。

成功は努力で成し遂げられると信じているウォーバックス氏が自分のPRのためだけに呼んだ孤児(アニー)と過ごす中で、困っている人を助けることや福祉に手を差し伸べることを学んで変わっていく物語でもある。

どうやら原作の漫画である「Little Orphan Annie」という作品では、さらに政治的な内容が描かれており、右派的であるとの批判もあるようだが、そちらは読んだことがないため映画批評にのみとどめておきたい。

さて、この1982年版の映画アニーを見ながら、現在のコロナの影響の中で、失業し家もなく困っている人々が増加している現状とリンクしながら考えてしまった。大恐慌の時代と重なるような現状のなか、日本政府は今のところ小さな政府(個人の責任に多くをゆだね、政府の支出を抑えること)を守っており、社会福祉に力を入れる様子はまだ見られていない。Go toにより経済を回すことを優先している対応も、旅行や外食に行ける余裕のある人にしか向かっておらず、今日明日の食事や宿に困っている人が利用できるような仕組みにはなっていない。

ニューディール政策が完ぺきだったとは言わないが、少なくともこのような状況下において、国民の生死が問われるなか、そこに手を差し伸べられない政府の在り方には疑問を持たざるを得ない。

アニーのように1人の前向きな少女が世界を変えることは現実的ではないかもしれないが、1人1人が声を上げ続けること、政府のやり方を本当にそれでいいのか見続けること、そして意思表示を選挙でし続けることでしか、自己責任論によって弱者を切り捨てる政治を変えていくことはできないのではないかと思う。