Liliana Granjaとのインタビュー:”男女で異なる生き方を”

インタビュー対象者:Liliana Granja
インタビュー実施者:山名 奏子

– 自己紹介をお願いします。
私はポルトガル出身で、リスボンで考古学と歴史を専攻しました。ブラジル出身のパートナーがいて、彼はジャーナリズムを専攻していて、彼は私より1年前に専攻していました。そのタイミングで彼は私より1年前に卒業していて、就職できなかったんです。それが2007年ごろでした。彼はブラジル出身だったので、ブラジルに引っ越すことにしました。彼は仕事を見つけられなくて、でも家族がいたので半年間行くことになったんです。それで、結局7年間滞在することになりました。パートナーも変わったんですが、結局。とにかく、日本の文化に初めて触れたのはブラジルでした。

ブラジルには世界最大の日系移民のコミュニティがあることはご存知かと思いますが、特に私がいたサンパウロという街には、ラテンアメリカ、もしくは世界最大のコミュニティがあります。そこから、日本文化に興味を持ち始めましたし、考古学史学の専攻を終えて英語を教えるようになりました。しかし、私はもっと勉強を続けたいと思い、修士に進みました。そこで私はサンパウロ大学の日本研究コースに行きました。そこには日本研究の教授がいて、去年亡くなられたんですが、もり先生は私の修士課程のアドバイザーでした。私の専攻である考古学に関連したことをしたかったのです。考古学では陶器を見つけることが多いですよね。陶器がたくさん出てきます。なぜならば、世界中の誰もが、歴史の中でいつの時代でも、人々は食べることが好きで、食べたいと思っていたからです。だから、陶器は普遍的なものなんです。だから、私は陶器に関連したこと、そしてブラジルの日本人移民に関連したことをやりたいと思っていました。

それで先生は、ブラジルの日本人陶芸家を探してみてはどうかと提案してくれました。実際にかなりの数の日本人陶芸家を見つけました。第二次世界大戦後の1960年代から1970年代に移住してきた人たちがほとんどでした。ブラジルへの移住は1900年代初頭から始まっているのですが、この時期の人たちの多くは農民で、家族でブラジルのコーヒー農園で働いていることが主でした。1950年代からは、日本で専門的な教育を受けている人たちが増えてきました。技術者や専門家、1960年代から70年代にかけては、反文化運動やヒッピー運動などの動きもあり、人々はあちこちを旅するようになりました。多くの人が日本を離れましたが、それは日本に不満があったからです。彼らは日本の硬直したジェンダー規範から自由になりたいと思いブラジルに移住しました。彼らは芸術的なキャリアを追求したいと思っていましたが、世界を探検したいとも思っていましたし、ジェンダーの束縛から解放されたいと思っていました。それで彼らはブラジルに移住しました。私は60年代から70年代に移住してきた二人の日本人女性に焦点を当てた修士号を取得しました。一人は80歳で、もう一人は70歳になって、まだ生きていて、素晴らしいことに一人はまだ陶芸をしています。

私は基本的に4年間、2010年から2014年までの4年間で修士号を取得しました。そして2013年に奨学金を得て、初めて日本に来ました。神奈川大学とブラジルの大学との間で、3週間の研究プロジェクトを行うという契約がありました。それで、2013年、2014年、そして2015年と日本に来ました。私は博士号を取得するために別の奨学金を得ました。それで私は日本で博士号を取得しました。それで私は逆のテーマをやりました。日本で陶磁器を勉強したり、仕事をしたりするために来日した外国人についてです。2019年3月に博士課程を修了して 仕事を探し始めて、運良くテンプル大学に就職が決まりました。彼らは辞める誰かの代わりになる人を探していましたが、私のカリキュラムを気に入ってくれたようで、通常は問題なのですが、私のプロジェクトはアート研究、アジア研究、社会学なので、彼らにとってはプラスでした。つまり、一つの分野にあまり焦点を当てていないので、分野に焦点を当てた学部に就職するのは少し難しいことがあります。TUJでは、その点に興味を持ってくれました。ですから、私はそこで非常勤講師をしています。3ヶ月で契約が更新されることが多いのですが、今のところ1年と数ヶ月間教えています。そして、アドバイザーの先生が私に首都大学のクラスを紹介してくれたのでそこでも教えています。今は都立大学と名前が変わりました。私は一年間、社会学のクラスを教えていました。ほとんどの学生が日本人です。それは本当に素晴らしい経験でしたし、実際に若い日本人女性には感銘を受けました。男子学生は少し恥ずかしがり屋なのか、何かを感じているのかはわかりません。でも、女の子は好奇心旺盛で、とても熱心だと感じています。だから、日本の若い女性にはとても期待しています。

– クラスは英語で教えているのですか、それとも日本語で教えているのですか?
はい、英語で教えています。学生たちの英語力も向上しています。日本人は特に英語で自分の意見を言わないと言われていますが、私のクラスではいつも質問をしても積極的に自分の意見を言ってくれる人がいます。本当に熱心ですね。

– 博士課程は日本で行かれたのですか?
そうですね、私の博士課程は都立大学だったので、日本語のはずなんですが、アドバイザーの先生によっては英語で論文を書くことができます。だから、私は日本語で授業を受けましたが、交換留学生のための授業もあります。だから、通常は学部生向けの英語の授業をいくつか受けましたが、私はすべてを理解できる授業を受けたかったので、結局、交換留学生向けの英語の授業をいくつか受けましたが、これはとても良かったです。それから、日本語の授業もありましたが、これはとてもストレスでした。でも、私の研究はほとんど英語で行われていたので、日本人の研究はしていませんでした。外国人について調べていたので、ほとんどの人に英語とポルトガル語でインタビューをして、論文も英語で書きました。

– 日本のジェンダー問題に興味を持ったきっかけはなんですか?

ジェンダーの問題については、特に日本ではあまり意識したことがなかったと思います。いつから意識し始めたのかは分かりませんが、男女平等の問題は、私の家族の中では当たり前のことだったのかもしれません。母が言っていたのを覚えています。女性が家の外で働き始めて、家の仕事だけではなく、家と外と2つの仕事をすることになってしまって、第2波の女性運動が来なければよかったのにと言っていました。50年代後半に生まれた私の母の世代は、女性は外で働いてもいいけど、家でも働かないといけない、男性は家事をあまりしない、というような気持ちを持っていたと思います。だから、彼女たちにとってフェミニズムは両刃の剣だったと思います。

個人的には、女性としての押し付けを感じたことはありませんでした。何か差別されていると感じたこともありません。女性だからといって、自分が不利だと思ったこともありません。とはいえ、女性であることで不利になることがないとは思いません。特に昔の時代に育った女性には不利になることがあったと思います。

ブラジルの陶芸家について調べてみると、男性が多く、女性は少ない。その女性たちにインタビューをしていると、女性だからこそ直面するジェンダーの問題や苦労話が出てきました。私がインタビューした陶芸家の一人、鈴木チカさんは1920年代に生まれました。彼女は戦争を経験していて、上流階級の女性でした。彼女の家は武士階級だったとまで言っていましたし、関ヶ原に参加していた時の資料も持っていました。彼女の家系は上流階級で、若い頃に父親を亡くしていました。戦後は義母のところに住んでいましたが、いい経験ではなかったようです。陶芸をやりたいと思って師匠を探しに行っても、女性は陶芸ができないので、断られてしまうんですよね。何度も断られました。この時代に陶芸家として働いている女性は、1950年代にはほとんどいませんでした。京都では陶芸フェミニストの運動があったようですが。陶芸の世界では、女性は常に存在していました。重い肉体労働をしていたこともあります。家元制度というのがあって、家元は父から子へと受け継がれています。普通は女の人は当主になれないから、水を運ぶなどの重労働をしていました。
そんな苦労もあったそうですが、やっと受け入れてくれる人が見つかって、毎年参加している有名な展覧会があったそうです。その展覧会には40人の男性が参加していて、女性は彼女だけだったので、当然、男性に審査される立場になっていました。
彼女は自分のキャリアを追求することができたのですが、ジェンダーの問題だけではなく、すべてが厳しかったので、ずっと日本を離れたかったのだと思います。決まったことは決まった方法でやらなければならないし、芸術家になると外の世界を見たくなるし、彼女の夫も画家だったんですよね。彼は画家で、フランスに行きたいと言っていました。でも、彼女は伝統の少ない新しい場所に行きたいと思っていました。彼女はブラジルについてのテレビ番組を見たんです。そして次の日、彼女は家を売って移民することに決めました。これは1960年代ですから、彼女は家族の中でかなりの決定権を持っていました。彼女が「行こう」みたいな決断をして、夫がそれに従ったんです。

もう一人の陶芸家のインタビューはその逆でした。多かれ少なかれ、彼女は夫に続いて陶芸の世界に入っていきましたが、彼女は主婦でした。だから、彼女は夫との間にいくつかの問題があると言っていましたが、それはDVのようなものだったと思います。それで日本の女性が直面している問題に気づくことができました。それで、私はそのことについて多くの本を読み始めました。やるべきことはたくさんあると思います。

– それはとても興味深い話ですね。では、ご自身の経験から、日本の社会の中でジェンダーの面で一番驚いたことや衝撃を受けたことはありますか?
私が最初に経験したことの一つは、ジェンダーと年功序列の文化の両方に関係していると思います。ブラジルで、日系二世の男性ともう一人の男性と一緒に居酒屋に行ったことがあるんですが、ブラジルの日本料理のプロジェクトをやっていたんです。それでみんなで居酒屋に行って、料理を持ってきてくれて、日本酒を持ってきてくれたんです。で、その日本酒を持ってきた時に、日系二世の男性が “君が一番若いし、女だからみんなにサービスしなきゃいけないんだ “って言ったんです。なんで?と思いました。自分のことは自分でやればいいのにって。それが最初の経験です。

それから日本の日常生活でも驚くことがあります。私の住んでいるところは、とても郊外なんですが、主婦の方が多いのでしょうね。気づいたのですが、ほとんどの女性は子供を産んでから仕事を辞めています。そして、ほとんどの女性がフルタイムで働くことはありません。彼女たちはパートタイムで、キャリアを諦めなければならないのです。だから私の周りでは、公園で子供たちと遊んでいる女性ばかりです。
でも一方で、週末に子供連れの男性が増えているのにも驚いています。時代が変わってきているからなのかはわかりませんが。ブラジルでもポルトガルでもそういう変化があるのかはわかりません。でも、ブラジルやポルトガルで見ていたものよりも、日本の方が子供と二人きりの男性を多く見かけるような気がします。確かに平日は女性の方が多いですが、週末には男性が子供の面倒を見てくれるようになってきているように思います。

そしてもう一つ、本当に衝撃を受けたのが名前の変更です。そして、これは私の母が自分の名前というか旧姓を守っていたので覚えています。ポルトガルでも夫婦別姓はあまり一般的ではありませんでした。ポルトガルはカトリックの国で、とても宗教的な国です。ほとんどの人が夫の姓を名乗ります。 義務ではありませんが 誰もがそうしていたと思います 。でも私の母は自分の名前を名乗っていました 。今でもはっきりと覚えているのが、家族旅行でロンドンに行くことになった時、父が予約をしていたのですが、チェックインの時に、受付の人が「あ、ムライス家ですね」と言ったのですが、これは父の名前なのです。で、子供たちはもちろん両方の名前を持っているんですが、姓は父の名前なんです。それで、「あ、ムライス家は3名ですね」と言われ、母は名前が違うので家族としてカウントされなかったんです。母は私と妹と父の3人とは名前が違うんです。同じ名前ではなかったので 母が家族として数えられないことがありました。それをはっきりと覚えていますし、 母が自分の名前を守り続けていることをいつも誇りに思っていましたが、家族として排除されたことを残念に思うと同時に、飛行機で別の席に座る母のことを気の毒に思っていました。でも日本では、誰かが必ず性を変えなければならないという事実があります。必ずしも女性が変えなければならないというわけではありません。でも、結局女性が変えてしまうのが現実で、私は名前を変えることができなかったんです。人に聞いた話だけど、全部の書類を変更するのが面倒くさいんですよね。だから、この3つがショックだったと思います。

あと、電車の中で女性専用車両を見たことがなかったんです。初めはなかなかいいなと思いました。女性専用車両があるのは嬉しかったです。でも、その理由を知ったことは少しショックでした。自分では気づかなかったことが、まだまだ世の中で起こっていたのだと思います。

– では、ブラジルやポルトガルと比較して、日本との違いはありますか?
どの国にも性差別はあると思いますが、全く違うタイプの性差別です。日本の性差別は、年配の方がヒエラルキーの中で上にいる場合の年功序列とも絡んでいると思います。そして、世間では年上の立場のある女性はあまりいないので、今はもっとチャンスがあるとは思いますが、こういったものがいまだに再生産されています。でも、人間関係では、ブラジルの方が周りの男性からの性差別を感じていたと思います。ポルトガルは、もう15年も住んでないからわからないけど。
「男は支配しなければならない」という考え方は、日本の男性の方が、ある意味少ないと思うんです。ブラジルやポルトガルはカトリック、キリスト教、ラテン系の国なので、男らしさの定義も違うと思います。ブラジルでは女性に対する暴力は大きな問題です。日本の状況は知らないけど、ブラジルでは女性が夫に殴られたり、彼氏に殴られたり、パートナーに殴られたりするのは、やはり大きな問題ですね。

– 日本でも家庭内暴力は大きな問題ですが、メディアではあまり報道されていません。
それも日本の問題ですね。メディアは問題をカバーするのがとても上手いというか、不都合なことを取り上げないようにしていますね。

– ジェンダーや不平等に関連した問題に直面したとき、どう対処しますか?どうやって対処しますか?
先ほども言いましたが、個人的にはあまり性差別を感じません。もちろん、何度も不謹慎なことを言ってくる男性もいますが、私は普段はかなり軽い気持ちで対応しています。性差別を目の当たりにするようになると、人に恨みを持つようになると思うんだけど、それが本当に自分のためになるのかどうかはわからない。だから、誰かが私に不適切なことをしてきたときは、丁重に断って、自分の人生を歩んできました。
私は、公然と性差別をされるような状況を経験したことはありません。女性であるから仕事に選ばれなかったというようなことも、一度も感じたことがありませんし。女性だからといって不利益を感じたこともないけど、運が良かっただけなのかもしれません。

– 自分はフェミニストだと思いますか?
そうですね。フェミニズムは男性のためのものであり、女性のためのものでもあります。私の考えでは、女性として、必ずしも男性と同じであることを望んでいるわけではありません。私は自分の違いを認められたいと思っていますが、違いを認めたうえで、同じ機会、同じ給料、同じ待遇は必要だと思います。男性と同じ苦労をしたいとは思っていません。私は、古いフェミニストの世代では、男性のようになるために戦い、男性の立場に立ちたいと思っている人がいたと思いますが、私はそれが女性のために役立つことはないだろうと思います。女性は女性ならではのニーズがあると思います。母親になることもそうですが、女性は一般的に女性特有の仕事に惹かれ、男性は一般的に男性特有の仕事に惹かれるので、なんでも同じようにと考えるのは難しいと思います。女性が鉱山で働きたいとか戦争に行きたいとか、男性が保育の仕事に就きたいとか、もちろん個別にはあると思いますし、そこは受容すべきだと思いますが、なんでも50/50にしたいと思うことは難しいと思います。一般的には違いがあることを受け入れなければならないと思います。私は、女性のすることは何でも良くて、男性のすることは何でも悪いというリベラル・フェミニズムのような今日のフェミニズムの言説の問題点をいくつか感じます。すべてのことは公平ではない選択に基づいています。例えば売春のように、女性が選択でそれをしているのだとしても、問題は女性のほとんどがマイノリティであるということです。彼女たちにはそれ以外の選択肢がないのです。

-ロールモデルとなる人やメンターはいますか?

うーん、ロールモデルはいないですね。特に女性のロールモデルがいないのは残念です。女性は一般的に機会不足に直面しているからだと思うのですが、残念ながら競争心が強く、お互いに思いやりがないこともあります。だから、私は自然とまわりに男性が多かったと思います。仕事の場面では、年上の女性の中には権力のある立場にいる人もいて、私は時々威圧感を感じることがあります。彼女たちは男性のように振る舞わなければならなかったし、多くの男性と競争しなければ、今の地位にたどり着くことができなかったからです。でも、もしロールモデルを選ぶとしたら私の両祖母を選びます。彼女たちは私の家族のリーダー的存在で、とても勇敢でパワフルな女性でした。祖父が運転できなくても祖母が運転したり、 祖父がポルトガルの独裁政権下で投獄された時 母方の祖母は家族を率いていました。

– では、ご自身の分野では、顧問の先生方は男性が多いのですか?
そうですね、日本のアカデミアは本当に男性優位で、年配の男性が多いですね。例えば、日本の学会に行っても、女性はほとんどいません。国際的なグループになると女性が増えますが、そうでない場合は大抵男性優位です。日本にいる外国人の同僚のほとんどは男性です。女性の外国人学者はあまり見かけません。私が出会わなかっただけかもしれませんが、男性の方が多いです。

– 今後の仕事や社会についてはどのように考えていますか?
今の仕事には満足しています。安心できる仕事がしたいです。最近は、仕事の保障や福利厚生、退職金などが厳しくなってきていると思います。社会的には、私は日本では完全な社会の一員にはなれません。外国人である私は、仕事をして税金を払っているにもかかわらず、選挙権がないことが主な理由で、何もできません。そういう意味では、社会の一員ではありますが、政治の場で自分の意見を言うことはできません。ポルトガルでは外国人でも選挙権を持っている人がいますが、日本ではまだ実現には程遠いと感じています。だから、もっと広く社会に対して何かできたらいいなと思っています。言葉の壁もあるし、国籍の壁もある。今のところは、自分の生活に沿って進んでいるだけです。