12月16日(水)8pmからNPO法人The F-Wordのカフェイベントを予定している。
第一回目のテーマは「ボディシェ・イミング」だ。
ボディ・シェイミングとは自分や他人の見た目に対して批判したり、バカにしたり、意見を言ったりすることである。
今まで生きてきた人生の中で、一度もボディ・シェイミングに出会ったことがないという人はほとんどいないのではないか(気づいていない可能性は大いにあるが)と思うほど、日常にあふれているにもかかわらず、それに向き合う機会があまりないように感じている。
当日のイベントでは、気づいていたり気づいていなかったりするボディ・シェイミングの経験を共有しながら、いかにボディ・シェイミングという概念が社会的に作り出されたものかということを理解していく内容になっているので、都合の合う方は是非参加してほしい。
今日は、私自身が体験したボディ・シェイミングについて考えてみたいと思う。
【異性からの視線】
体質なのか習慣なのか、私は体重の増減が激しい。2~3年で10キロ以上の増減を繰り返すため、自分の標準体型がなんなのかよくわからなくなったりする。特に海外生活をしたり、仕事をしたりなど環境が変わると変化も大きいので、習慣的なものが大きいのかもしれない。
さて、自分の体形をはじめて意識したのは二十歳の時くらいだろうか。二十歳になるまで、ラッキーなことに「異性からの視線」をほとんど感じずに生きてきた。中学高校は共学だったが、友達は女性ばかりで、男友達は全くおらず、大学は女子大だったため、全く男性と話すことはなかった。二十歳の時に、初めてアメリカ留学をした際に、日本人の男性と仲良くなったのがほとんど初めて「異性からの視線を」気にした瞬間だったと思う。
ちなみに、二十歳の私は化粧っけもなく、髪も母親に切ってもらうというようないで立ちで、お世辞にもあか抜けているとは言えなかったと思う。ただ、自分のことは好きだったので、それに対して卑屈になったりもしていなかったように記憶している。
その当時、仲の良かった男友達は、年上の日本人が多く、今まで年上の男性と話したこともなかった私は、憧れを持って接していたように思う。その中のある人から、言われたことで、驚くほど長い間私の思考を呪縛していた言葉がある。「綺麗な人はみんな努力して、体形や見た目を維持してるから、そうしたほうがいいよ」といったような内容だったと思う。
当時の私は、それを真に受けて、お化粧を勉強したり、エキササイズをしたりして、なんの考えもなく「綺麗になろう」と思っていた。
その思考は私が27歳でフェミニズムに出会うまで、ずっとこびりついていた。
【体形に関する自己責任論】
特に、社会人になってからは、同じように「体形を維持できないのは自己管理能力が足りないからだ」というよくある呪縛(自己責任論)も重なって、自分だけではなく他者に対してもボディ・シェイミングの視線を持っていたように感じる。
そして、怖いのは、「綺麗な人は努力している=きれいじゃないのは努力不足」や「体形維持は自己管理」といった、ことばは個人単位で発せられるだけではなく、電車の広告やTV、ウェブサイトのマーケティングなどで、恐怖心をあおることで多くの人のマインドに刷り込まれていくのだ。
自分自身の身体が客体化されることを、日常的に感じることは、非常に大きなストレスであり、人権侵害でもあると思う。
特に、女性にとって、痩せているかどうか、髪がきれいかどうか、二重かどうか、おしゃれをしているかどうか、といったプレッシャーは広告やメディアだけではなく、通りすがりの他人にすらジャッジされているような現状ではないだろうか。
そのような社会的なプレッシャーの中で、「どんな自分でも魅力的だ」と思える力を持つことはとても大切だがとても難しいと感じる。
最近では渡辺直美やバービーといった芸能人が自分の身体をポジティブにとらえて発信している例も少しづつ見られるようになってきた。しかし、長い間をかけて作られてきた「美の基準」を心の底から変えていくのは難しいと思う。
そういう意味でも、同じような経験をしたり、考えを持っている人々と意見を共有しながら、この生きにくい社会を生き抜いていくためのアイディアや共感を得ることは大切なことではないかと思う。
ぜひ、少しでもこの記事に共感を持ってもらえたら、イベントに参加してみてもらえればと思う。同じように考えている仲間を見つけることができるかもしれない。
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