「英語が話せること=世界で活躍できる」と思わせられるような英語学校のコマーシャルは、「女性の容姿が美しければいけない」というコマーシャルと同じくらい幻想を作り出しているように感じる。電車に乗っていても、「脱毛」と同じくらいよく見かけるのが「英語」の広告ではないだろうか?
そもそも、「言語が話せる」ことと、「自分の文化とは異なる国で活躍する」ことには違うスキルが要求されるのだが、それがまとめて「グローバル」という括りにされることが多いのが残念だ。
- 文化的背景の理解
日本とアメリカのお笑いに関する違いでも書いたが、「容姿を笑うこと」が面白いと思ってとる文化と「容姿を笑うことが社会的に許されない」文化ではコミュニケーションの取り方が全く異なるだろう。同様に、その国の文化を理解していなければ、いくら「英語が話せ」ても、社会的に孤立する可能性だってある。
私は日本とアメリカでしか暮らしたことがないので、例えがすべてアメリカ社会になってしまうことをご了承いただきたいのだが、例えば、日本では初めて会った人に年齢を聞くことは未だによく起こっている。しかし、アメリカ生活した7年間で“How old are you?”と尋ねられた経験は片手で数えるほどしかない。それも、相当仲良くなってからしか聞かれたことがないほど、「いきなり年齢をきくこと」が失礼なこととして捉えられているのだ。
他にも、アメリカでは様々な人種が様々な歴史的背景を抱えて暮らしている。そのような背景を知らずにいることは、意図せず彼らを傷つけることになる可能性もある。例えば、日本では「インディアン」という言葉がまだ使われることがあるが、アメリカでは先住民族のことを“Native American”と呼ぶのが一般的だ。このようなマイノリティの呼称は歴史的な文脈の中で常に変わっていくので、常にどのような呼び方が相手を不快にさせないのかを理解していくことが必要だ。相手の文化や背景を理解して学ぼうという姿勢がなければ、英語だけ話せてもお互いに理解し合えない。
- ポリティカルコレクトネスの理解
このような「年齢を聞かないこと」や「言葉の選び方」を考えることによって、政治的や社会的に公正・中立な言葉を使用することをPolitical Correctness(ポリティカルコレクトネス)というが、このような線引きがいまいち日本ではされていないように感じる。
「昔はよかったのに、今は「セクハラ」といわれるから困る」と思っている人々が多いのも、PCが何なのかを理解していないからだろうと思う。
もちろん、アメリカにだって人種差別主義者や性差別主義者はたくさんいる。しかし、彼らは「公の場でそれをおおっぴらに言う」ことが自分のキャリアに影響することを知っているので、気を付けて言葉を選ぶのだ。(最近はトランプの影響でそうでない人たちも増えているように思うが、、、)
とにかく、「人の容姿を笑う」「美人を誉める」「年齢をバカにする」「ホームレスを軽視する」などといったことによって共感を得ようとするコミュニケーションスタイルをとるような人間は「ヤバい」とされる文化があるのだ。
書いていて悲しくなってきたが、日本でそのようなコミュニケーションスタイルをとっている人々が、そのままのメンタリティで異なる文化や社会でキャリアを築いていくことは難しい。
- 多様性の理解
ではいったいどうすればいいのか?一からアメリカ史を学び、それぞれの文化的背景を理解していなければいけないのか?英語を習得することも大きなハードルなのに、それ以上のハードルを越えなければいけないのかというとそんなことはない。もちろん、興味を持って知っておくことはとても大事だと思うが、異なる文化をすべて理解することなんて不可能だ。
結局は、「多様性を理解する」ことが世界で活躍するうえで最も大切なことだと思う。
自分と正反対の意見の人を、笑ったり批判したりするのではなく、「対話」することによって多様性の理解は生まれるのではないだろうか。
私はかなりラディカルなリベラル思想だと思っているが、真逆の右翼的な考えに出会ったときに切り捨てるのではなく、なぜそう思うのかを聞きたいと思っている。聞いて、対話したうえで、分かり合えないことはもちろんあるし、それで疎遠になることもある。しかし、「理解できないからといって、切り捨てる」ことは、強者の論理であり、切り捨てられない立場にある人に寄り添えない考え方だと思う。つまり、どのような政治的、文化的、社会的立場にある人でも、向き合ってみること、なぜそう思うのかを聞いてみることを繰り返すことで「多様性の理解」が進むのではないかと思っている。