今、Sex and the Cityを見る

Sex and the Cityをいったい何度見直したことだろうか。1998年から2004年にかけて放映されていたので、リアルタイムでは私が15歳から21歳の時だっただろう。当時は日本で暮らしていたので、リアルタイムで見た記憶はないが、大学院生のころに初めてSATCと出会ってから今まで、何度も見返したドラマの一つだ。
あの当時、憧れを持ってみていたドラマは、年代を重ねるごとに違う視点で見ることができて面白い。
今回は、今でもSATCが好きだからこそ、あえて批判的な視点でSATCを見返してみたい。

【人種のステレオタイプ化】
SATCを見てまず思うのが白人の多さだろう。作品中、ほとんど黒人やアジア人、メキシコ系のキャラクターは登場しない。
アジア人としては、ルーシーリュウが一度本人役で登場したが、セレブなのでゲスト出演といったところだろうか。
サブのキャラクターとして、サマンサが付き合っているリッチな男性のハウスキーパーとしてアジア人の女性が登場する。彼女は、雇い主の前では勤勉で従順な女性を演じるのだが、恋人のサマンサに対しては敵意をむき出しにする、という役割だった。
「アジア人、ハウスキーパー、女性、従順、勤勉」という言葉を並べるだけでも、どれほどアジア人女性がステレオタイプ的に描かれているかがわかるだろう。更には、女同士のキャットファイトを演出させるかのように、サマンサへの敵対心が描かれている。

黒人の描き方も非常にステレオタイプ化されている。
メインキャラクターが付き合った男性のなかで、サマンサとミランダだけが黒人男性とデートしているエピソードが出てくる。どちらも、「肉体的に美しく、強い黒人男性」というステレオタイプで描かれているように思う。
ミランダがデートしていたロバートという黒人男性は、付き合っている間は非常にやさしく聡明なキャラクターとして描かれていたが、別れてからは性的な対象として描かれ、「性に奔放な黒人男性」というステレオタイプで締めくくられていた。

主人公のキャリーが最後に付き合うアレックスという年上の男性は白人ではありつつも、外国人(ロシア人)という設定だった。女同志で彼の話をする際には“Russian(ロシア人)”と呼ばれ、ほとんど名前で呼ばれていない。つまり彼は、アレックスという個人ではなくロシア人というカテゴリーで認識されているのだ。
最近は人種の多様性なども考慮され、アジア人が主役の映画なども出始めているが、「白人ばかりのアメリカ」が映画やドラマで流されているのが当たり前だったため、初めてアメリカで暮らした時は全く違う実情に驚いた。

【階級による分断】
SATCといえば、「白人のリッチな女性」に焦点を当てたドラマだろう。マノロやジミーチュウといった高級ブランドの靴をさっそうと履いて、NYに暮らす女性たちの姿に憧れる女性も多かったと思う。
毎週のように行われるブランチやディナー、移動はほとんどタクシーであり、身に着けている服や装飾品もきらびやかだ。
全く考え方や生き方の違う女性が連帯できるように描かれているのが、魅力的な一方で、あのようなライフスタイルを同じように過ごせることが友情をつなぐ手立ての一つなのだとしたら、階層による分断を想像して残念な気持ちになってしまう。
前述で出てくる、アジア人ハウスキーパーの女性が主人公4人の「仲間」として描かれることがないのも、人種や階層のレイヤーが違うものとされているからだろう。

実際のところメインキャラクターが全員同じように高給なのかというと、そういう設定でもなさそうなのだが、収入に関してはあまり触れられていないところがこのドラマのファンタジー感を醸し出している。

【性の解放と保守:多様性と繋がる女たち】
とはいえ、いまだに魅力的なドラマだと感じてしまう要因は、女性が主導権を持ってセックスを語り、全く思想の違う4人が連帯するシスターフッドが見られるからかもしれない。
キャラクター全員が性的に奔放というわけではない。4人の主人公が全く異なる思想を持っているのだ。性に奔放なサマンサ、キャリア志向でフェミニストであろうミランダ、保守的なシャーロット、保守とラディカルを行き来するキャリーという、だれしもがどれかの登場人物に共感できるように作られている。性に関しても、様々な体位や道具を使って楽しむことをオープンにするキャラクターがいる一方で、「3回目のデートまではセックスしてはいけない」と信じていたり結婚にあこがれを抱くキャラクターがいる。多様な考え方や意見の違いがあれど、尊重して共感して繋がれる女たちの姿をうらやましく思ってみていた記憶がある。
異なる思想や背景を超えて連帯するシスターフッドが、何度も見返してしまう理由の一つかもしれない。