アメリカの有名な生理用品の会社が作ったCMで、“Always #LikeAGirl”という動画がある。「女の子みたいに走って、ボールを投げて、戦って」という指示をだし、年代の違う男女に実演してもらうCMだ。
思春期の男女にそのような指示をすると、全員がなよなよして、髪形を気にしながら動く「女らしさ」を演出する一方で、10歳以下と思われる女の子たちは全力で走り、全力でボールを投げ、全力で戦う姿を実演して見せる。
ここではいつから「女らしい」という言葉が侮辱になったのか、と問いかけ、「自分らしく」いることの意味や「女らしい」をバカにする風潮に疑問を投げかけている。
日本語でも「女々しい」という言葉が明らかな侮辱として使われているように、「女らしい」という言葉には、弱弱しさや自立していなさがどこか含まれているように思う。
「女らしい」という言葉は一方で、誉め言葉としてもつかわれる。(誉め言葉と思って使っている人がいる、と言った方が正しいかもしれない)「家庭的で、周りのことによく気が付き、愛想がよく、控えめで、自分を着飾ることにも気を使っている」といった意味が含まれているように思う。
個人的に「女性らしいね」という発言を受けたのは、お弁当を毎日持って行っていた時、毎日髪形を変えていた時、相手の話を聞くことを優先して愛想よくしていた時に「誉め言葉」として言われた記憶がある。
そして、その「誉め言葉」は全くうれしくなかった。
誉めてるんだから素直に受け取っておけばいいのに、と思う人もいるだろう。しかし、誉めることによって相手を呪縛することはいろいろな場面で起こり、それに気づかずに誉められたと受け取ることによって自分自身を「固定観念」に縛り付けてしまう可能性がある。
例えば、最近では「節約が美徳」といったテレビ番組をよく見かけるが、節約術を誉められるのはほとんどが女性である。それをポジティブな意見として取り入れてしまうと、「お金がなくても様々な工夫で楽しく生きられるし、そうできないことは努力が足りないからだ」という考え方を内包してしまうことになりえる。女性の方が圧倒的に給料格差がある日本において、「節約を楽しむ」思想を内在化することは、「お給料が低いことに文句は言わず、その中で楽しむこと」に美徳を感じさせる可能性も十分にある。
つまり、「女らしい」ということばは、ポジティブであれネガティブであれ、どちらも女性たちを固定概念に縛り付ける役割を少なからず担っていることを考える必要がある。
特に、幼少期の女の子に「女の子でしょ」「女らしくしなさい」というしつけは、未だにあるように思うが、「女らしく」することを教育として求められて育った女の子が、ある時に「女らしい」ことが馬鹿にされる要素であることに気づかされることはとても悲しい。
私自身も、10代の頃(そこまで考えていたわけではないが)「女らしい」ことを避け、「男の子っぽい」と言われるような恰好や言動を好んでいたように思う。そして、「女らしい」の呪縛から逃げるために「男らしさ」を求めたところで、あまり変わりはなかった。結局のところ、どちらの「らしさ」も社会的に構築された「女とはこうあるべき」「男とはこうあるべき」という価値観でしかなく、そのような価値観から脱却するには「自分がどうしたいか」を考えるしかないのだということに気がついた。
女性支援の活動をしていると、「自分は男だから関係ない」という声を残念ながら聞くこともある。「女らしさ」に囚われることと同様に「男らしさ」に囚われている人々も生きづらさを感じているのではないかと思う。
社会的に求められる役割から解放されて、自分らしく生きることは簡単ではない。そもそもどういった「社会的に構築された価値観」を自分は内包しているのだろうか、というところからゆっくり紐解いていくことで、本当の自分らしさと出会えるのではないかと思う。