間違いを認められない病

2021年の年明けに、大坂の吉村知事が「ガラスの天井」の使い方を間違っているという話題があった。「ガラスの天井」とはもともと、70年代にマネージメントコンサルタントをしていたMarilyn Lodenというアメリカ人女性が作った言葉で、キャリアの中で女性が直面する目に見えない天井を示している。つまり、男女で同じようにキャリアアップできるはずなのに、女性はどんなに頑張っても、管理職やCEOといったポジションに就く前に見えない天井が存在しており、それ以上上には進めないという意味の言葉だ。
このフレーズを吉村知事はコロナの感染者数が増加した例えに使い、多くの人からSNSなどで誤用を指摘されたのが今回の話である。
この話で、気になったのは誤用だったかどうかというよりは、吉村知事のその後の反応である。彼は、自身のツイッターで

“蓮舫議員や太田議員が、「吉村が『ガラスの天井』を間違って使ってる!」と一生懸命だが、僕が役所内の「ガラスの天井」を打ち破る為に何をしてるのかも知らないんだろうな。その意味で使ってない。記者会見では、いつ割れてもおかしくない状態を「ガラス」に喩えただけ。会見の中身を見たら明らか。”

と、いかに誤用ではないかを主張している。
この反論を見たときに感じたのは、間違いを認めて修正できないことへの違和感だ。彼の言う通り、いつ割れてもおかしくない状態をガラスに喩えただけなのかもしれないが、そうであれば「ガラスの天井」というフレーズを使う必要はない。多くの人にとって「ガラスの天井」というフレーズはどうしてもMarilyn Lodenの言葉を思い起こさせるものである以上、知っていて使ったのであれば混乱を招くし、もともとの意味を理解していない人にとってはあらたな誤用を生む可能性もある。

吉村知事がそもそもの意味を知っていようがいまいが、それに興味はないのだが、混乱を招く表現であったことを認めて、修正すればいいだけの話のように感じる。
が、彼のツイッターでは、自分の功績を引き合いに出して、間違いを指摘している人々を逆に批判している。
間違いや失敗を認めたら、人生が終わってしまうのかと思ってしまうほど、吉村知事に限らず、間違いを認めて修正できる人が少ないように思う。

コロナの対応においてもそうだ。この1年でなされてきた謎の対応(Gotoや東京アラート)について、「間違いました、修正します」「的外れでした、修正します」という言葉をほとんど聞いたことがない。だれも予想できないようなこんな事態で、全部正解を出して進むことができないことは多くの人は理解しているはずだ。しかし、間違ったり、遅かったり、的外れな対応に対して、それを認めて、誤って、修正する過程が一切ないことにたいして、不信感を感じている人も多いのではないだろうか。

残念ながら、「間違いを認めたら人生が終わってしまう病」にかかっている人は、思いのほか多い。特に重要なポジションに就けばつくほど、そうなってしまう人が多いように感じる。とはいえ、その人だけを責めるつもりはない。その人の上司や組織のトップにいる人も同じように「間違いを認めたら人生が終わってしまう病」にかかっていると、いかに組織全体で間違いを認めないかが最重要事項になってくるのだろう。
そうなってしまうと、もう隠ぺいするか、的外れに他の人を責めるか、言い訳をするかという選択肢になってしまうのだろう。

事実を間違えたり、対応をミスったりする以外にも、人間であれば自分の意見や考え方が生きていく中で変わっていくのは当然のことだ。常に学んでいれば、あの時の発言は間違えたな、とか、今は考えが変わったな、と思うことはたくさんあって然るべきだ。The F-Wordでは、常にイベントの初めに設定しているルールの中に、「意見や考えはいつでも変えたり修正したりしても大丈夫。」というものがある。1時間のイベントでも初めに考えていたことが他者の意見を聞いたりして変わることがある。「言ってしまったこと」が修正できない世界は、怖すぎて何も発言できない。いろんなことを感じて体験して変わっていく意見が面白くもあり、人と話す意義だと感じている。

吉村知事の件で感じた、間違いを認められない病は、きっとその人自身を生きづらくしているのではないかと思う。どんどん変化する自分の考えを許容してくれる世界が広がっていくことを2021年も追及していきたいなと感じる出来事だった。