政治と宗教の話はしないという謎のルール

公の場で政治と宗教について話さない方がいい、というフレーズは「都市伝説」だと思っていたが、全く同じフレーズを自分自身で聞いたので、驚いたことがある。なぜ「政治と宗教の話」はタブーなのだろうか。

 

「政治と宗教の話はやめた方がいいと思います」これを言われたのは、私がまだRIZAP ENGLISHという会社に勤めていた時だ。新コースの開発リーダーとして、ブレインストーミングの会議を実施した際に、その中の一人から出た発言だった。そのコースは英語の超上級者向けコースとして開発しており、ある程度英語が話せる人がもっと国際社会で活躍するためのコースだったが、途中で開発ストップになってしまったので、現在そういうコースは存在していない。

なぜ政治と宗教の話をタブー視するのかというと、単に「主義主張の違いによって揉める」のを避けたいからだろう。そこに利害関係が発生するならさらに、避けたいという気持ちになるのかもしれない。

さて、国際社会で活躍するために必要なことは「英語が話せる」ことだけではないと前回のブログでも書いたが、「自分と異なる考えや意見にしっかりと対話すること」は自分が生まれ育った国以外で生きていくうえでとても大事なことである。(自国で生きるうえでももちろん必要だと感じている)

 

つまり、異なる政治的思想や違う宗教(無宗教も含む)を信じている人と出会ったときに、「この話は面倒だから避けよう」とする姿勢よりも、「知らないから教えてほしいし、聞いて賛同するかどうかは分からないけど、批判はしない」という意識を持っている方がどれほど会話や自分自身の幅が広がるかは明白だと思う。

 

「議論をすることと、批判をすること」は全く違う。議論して揉めたくないと思うのは、それはどこかで議論ではなく批判や価値観の押し付けになっているからかもしれない。お互いの異なる意見を交わすことによって、新しい視点を考えることが議論であり、それによって自分自身の考え方や視野が広がる。しかし、日本の国会答弁などを聞いていると、国の方針を決める場所で行われているのはどうやら「議論」ではなく、「批判を避けて逃げる会話」の繰り返しのように見える。それは「この話題面倒だから避けよう」という精神にほかならない。相手の質問に全く答えずに、自分の意見もはっきり言わず、当たり障りなく問題が起きないように答える話し方を日本の政治が正面切ってやっている現状を見ると、大きな企業の会議で平気で「政治と宗教の話は避けよう」というコメントが出てくることも驚くことではないのかもしれない。

 

「政治の話」というと、選挙や国会やどの政治家をサポートするかの話と思われることが多いが、狭義ではなく広義の意味での「政治的な話」を考えてみたい。つまり「最近食材が値上がりした」、「痴漢にあった」、「子どもが学校に行きたがらない」など、日常で起こっている多くのことは「政治的な話」なのだ。例えば、食材の値上がりは「貿易、農家、卸値、景気」といった大きな枠組みでとらえられるし、痴漢は「男・女、性的搾取、女性軽視」、学校に行きたくないことは、「個と集団、学校組織運営、文部省、教師と生徒」という政治的な枠組みで考えることができる。このように、パワーバランスが生まれていることは、政治的な話なのだ。「個人的なことは政治的なこと」というのは全くその通りで、さまざまな日常の風景は政治に繋がっている。

 

そう考えると、「政治的な話を避ける」ことはほとんど不可能だし、それを避けることは個人的不利益にもなりえるということだ。先ほどの「最近食材が値上がりした」、「痴漢にあった」、「子どもが学校に行きたがらない」という3つの例でも、これらすべてを「個人的な話だから、自分で解決しなくては」と考えてしまうことは、政治の役割を放棄し個人に責任を押し付けてしまうことに他ならない。しかし、「貿易、農家、卸値、景気」、「男・女、性的搾取、女性軽視」、「個と集団、学校組織運営、文部省、教師と生徒」という枠組みで考えれば、もっと根本的な解決ができるかもしれないのだ。

 

このように、個人的なことを政治的(宗教も政治的な話の一部である)なこととして捉えていく視点の育成をしていくことは、海外に行く行かないにかかわらず、自分が社会で生き抜くために必要なことだ。

そして個人的なことを政治的なこととして捉えることはそんなに難しいことではない。ちょっと疑問に思ったことや、ちょっと不快に感じたことを「なぜそう思うのか」と深堀していくことで、見える世界が変わってくる。このブログでも「個人的なことが政治的なこと」として捉えられるきっかけを、発信できたらいいなと思う。