トレバー・ノアの「Born a Crime」にみる笑いとジェンダーの気づき

初めてネットフリックスでトレバー・ノアのスタンダップコメディを見たときの衝撃を覚えている。南北問題(※先進国と発展途上国の経済格差をめぐる問題)の不条理を面白おかしく描き出す彼のセンスに引き込まれると同時に、日本との「笑い」の違いを実感して衝撃を受けたのだ。
「笑い」を書き起こすのはナンセンスだと思うので、ぜひ彼のパフォーマンスを見てほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=c80MS6AUcJ8
ネットフリックス会員なら日本語の字幕付きでも見られるので会員の方は「トレバー・ノア:僕はパトリシアの息子」を見ると彼のスタイルがよくわかると思う。

さて、日本とアメリカの「笑い」の違いについてだが、日本のお笑いは「違いを馬鹿にして笑う」ことが多いように思う。(決してそれだけではないのは分かっているが)人の容姿や体形をわらったり、セクシュアリティや人種の違いが笑いのネタにされることが多い。「通常」と違うものを笑うことは「違うものを傷つけてしまう」笑いではないかと感じてしまうのは私だけだろうか。

アリアナグランデが来日した際に、近藤春奈のネタに全く笑わなかったと話題になっていたことがある。「マイケルムーア監督じゃねーよ」と彼女の顔が年配の男性に似ていると例えて笑いをとる、彼女の持ちネタの一つであるが、近藤春奈が「シュレックじゃねーよ」と発言したときに、アリアナグランデは一切笑わなかった。わかってもらえていないと思った近藤が今度は英語で”I am not Shrek.”と伝えたところ、アリアナは “I didn’t think you are, I think you are very nice, Kawaii.”(そうは思っていない。あなたはとてもすてきだと思う。)と答えていた。若い女性である近藤の容姿が年配の男性に似ている、ということが「笑いになってしまっている」日本の「お笑い」の在り方にはっとさせられる、すばらしい発言だったと思う。

同じように、女性芸人の見た目を笑うことは日常茶飯事に行われている。森三中の相撲ネタもそうだし、ハリセンボンの死神ネタもそうだろう。彼女たちが自分たちの容姿をネタにしていることを責めているのでは決してない。そうすることでしかキャリアを積めない世界なのだろう。しかし、自虐ネタをする女性芸人とそれを笑う観客という構図をこの先ずっと続けていくことが日本社会で生きていく上で本当にいいことなのだろうか。最近では、そういう笑いを「古い」と提言する女性芸人も増えてきてうれしいと思う。アリアナグランデのように違う文化圏からの発言はハッとする反面、日本社会に属していないからいいやすい、ということもあるだろう。私たちは日本に生きる「当事者」として容姿や体形に関することをパブリックで話すことがどれだけ他者を傷つけるのかを考えていく必要がある。個人的にはバービーの「普通の美の基準とは違っていても自分は美しい」というメッセージを発し続けている姿勢がとても好きだ。

「ブスだね」と笑いをとることだけが、危険なのではない。会社や飲み会の場で「綺麗だね」とほめることも、女性の外見を判定(ジャッジ)していることにおいて危険なことだという認識が広まってほしいと思う。「ほめてるんだからいいじゃないか」と思うかもしれないが、公共の場所での他者の容姿を判定することは、他者を「綺麗・きれいじゃない」ものに振り分ける権利が自分にあると思っているという浅はかさを露呈するだけであり、いいことはない。

トレバー・ノアの自伝でもある「Born a Crime」では「美しい女性」との出会いによってトレバーが気づかされたジェンダーの視点が興味深いエピソードとして語られている。

「Born a Crime」はアパルトヘイト時代の南アフリカで過ごしたトレバーの幼少期を描いている。理不尽な社会背景や、母親が黒人で父親が白人であるトレバーの異質性などを面白おかしく綴ったとても興味深い作品だ。全体的には人種の問題や貧困の問題、強い信仰をもった母の教えなどがクスッと笑えるエピソードとともに描かれているのでぜひ全編読んでみてほしい。
ここでは、私が個人的に面白いと思ったジェンダーのエピソードを一つだけ紹介したい。

トレバーが高校生のころ、ダンスパーティーが学校で開催されることになる。当時、トレバーは海賊版のCDを作って学校で売ることでお金を稼いでいた。その仲間に「無料でいい音楽をたくさんくれたら、今まで見たこともない美人をダンスのパートナーとして連れてきてやる」と言われたトレバーはその誘いにのった。半信半疑のトレバーに紹介されたのは素晴らしく美人でシャイなバビキという女性だった。二人は何度も仲間とともに会い、関係を深めていく。
美人の彼女に張りきったトレバーは義理の父にBMWを借りて、おしゃれな服も調達してダンスの準備を進めていた。しかし当日になって、酔っぱらった義理の父は約束していたBMWを貸せないと言い出す。困ったトレバーは車を探して走り回り、彼女を迎えに行く時間に大幅に遅刻をしてしまう。怒った彼女を隣に乗せて、焦ったトレバーはさらに道を間違えて、ダンスパーティーに2時間も遅刻してしまった。
「中に入ろう」というと彼女は怒っていて何を言っても「No」しか言わず、車から出てこなくなってしまった。説得に行ったトレバーの友達が、戻ってきてトレバーに言った驚きの一言が、「彼女、英語を話せないみたいだ。」
その時に初めてトレバーは彼女と一言も話をしていないことに気づく。”Hi.” “Bye.” “Yes.” “No.”だけしか彼女は答えていなかったのだ。あまりにも美人と出かけられることに浮かれていたトレバーは彼女が英語を話せないことに全く気が付かなかったのだ。

「美しい」ということに囚われてしまっていたトレバーは、こう思う。自分のしていたことは「パソコンの待ち受けの裸の女性を見ているのと変わらない」と。ガールフレンドがどういうものかもわかっていなかったし、話したら雰囲気を台無しにしてしまうかもしれないと思っていた自分を恥じ、彼女が車を降りたくない原因を作ったのは自分だと気づくのだ。
毎回のエピソードには少年期のトレバーの気づきや学びがあるが、この回では女性を「美しい物」としてとらえていた自分に気づく。

「全く会話がなかったことに気づく」ことで「彼女の外見ばかりを気にしていた自分」に気づくエピソードはとても面白い。多言語を話す人が多くいる南アフリカならではのエピソードでもあるだろう。日本ではなかなかそのような経験をすることはないかもしれない。その一方で、「会話が成り立つからこそ外見に囚われている自分」に気づけないこともあるのではないだろうか。男性女性にかかわらず、「好みのタイプ」というのはあるだろうし、特に「これが美しい」という美の基準を毎日のようにテレビや雑誌で突き付けられていると、「美しい物」を手に入れることに価値があると容易に刷り込まれるだろう。それが「悪いこと」だとは思わないし、何を見て「美しい」と思うかどうかは個人の自由である。

しかし、その基準を他者に押し付けた時点でそれは相手を物としてジャッジしたり、傷つけたり、批判することになる。悪意があろうと、なかろうと。


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