「#ポテサラ」事件にみる生きにくさ

先日のツイッターで#ポテサラがトレンドに上がっていた。なんだろうと思ってツイートを追いかけてみたら、衝撃を受けつつも、「あぁ、またか」と思うようながっかり感を感じる内容だった。

簡単に要約すると、「スーパーで子ども連れで買い物をしている母親がお惣菜売り場でポテサラを手に取ったところ、見知らぬ男性が“母親だったらポテサラくらい作ったらどうだ”と罵っているのを聞いた」というツイートだ。

トレンド入りして話題になるくらい、みんなが「ヤバい!」と思ったことにほっとしつつも、この現象がどう「ヤバい」のかを言語化しておきたいと思う。

① 「役割」の押し付け
一番わかりやすいのが「母親たるものこうあるべき」という役割の押し付けに多くの人がヤバさを感じるのではないだろうか。「母親なら料理して当然」「母親なら母乳をあげて当然」「母親なら毎日夜泣きに対応して当然」このような強い母に求める幻想を「母親神話」というが、日本社会では母親に限らず「男なら稼いで当然」「会社員なら会社の言うことをきいて当然」「学生なら教師の言うことを聞いて当然」という「当たり前の押し付け」がどこにいても存在している。
特に「母親」に求める役割は、それが強いようにも感じるのは、「母はこうあってほしい」という理想がより強いからなのかもしれない。今回の「母親ならポテサラくらい作れ」という発言をした男性がポテサラを作ったことがあるのかどうかは分からない。もしかしたらすごい種類のポテサラを研究していてポテサラを極めた達人かもしれないし、作ったことなど全くない立場で「こんな簡単なものくらい」と言っているのかもしれない。どちらにせよ「ポテサラくらい」という背景には、「こんな簡単な料理」という意識が透けて見える。
作りこんだうえで「簡単だ」と評価しているのか、作ったこともないくせに「簡単だろう」と思っているのかはこの際置いておいたとしても、自分の価値観を見も知らずの他人に押し付けている段階で「役割と価値観の押し付け」である。
見知らぬ人に自分の役割や価値観を押し付けられることが許されるのは本当にヤバいと思うが、会社の上司や学校の教師など、同じように「役割と価値観」を押し付けられた経験のある人は多いのではないだろうか。今回のトレンド入りは「知らない男性」に言われたという衝撃で多くの人が反応したが、思い返してみてほしい。残念ながらよくある日常の風景として「役割と価値観の押し付け」はどこでも行われてしまっている。

② 他者への想像力のなさ
次に感じるのは男性の「想像力のなさ」である。まず、その親子と思える女性と子供が赤の他人の立場で「本当に親子かどうか」はわからない。もしかしたら甥っ子を連れていたのかもしれないし、友達の子供だったかもしれない相手に「おまえは母親だろう」という前提でいきなり話しかけるのは非常に失礼である。
更に、「ポテサラくらい」簡単に作れる、というのも他者に対する想像力の欠乏だろう。もしその人が身体的な障害を抱えていて、包丁を持つこともできなかったら、重い病気を患っていたら、という考えはその男性の中には一切存在していなかったのだろう。身体や精神に障害を持った人々が「なんでこんな簡単なことができないんだ」と他人に言われる世界はとんでもなく生きにくい。
もちろんすべての自分と違う人たちへの想像力を働かせるのは難しいかもしれない。しかし、なんでもかんでも自分の基準で他人を図ることは、「みんな同じで当然」という生きにくい社会を作る原因になってしまうのではないだろうか。

③ 弱いものいじめ
これはポテサラの件がそうだった、というわけではないという前提で書き留めておきたい。単なる想像ではあるがこの女性がものすごく強そうな格闘家のような体格だったら、その男性は同じことを言っただろうか?という疑問が頭をよぎる。
電車での痴漢や、街中でわざとぶつかられたりするケースの被害者の多くが女性であることを考えると「自分よりも体の小さい、弱いもの」になら強くふるまえるという弱いものいじめの構図を感じる。どう考えても「強いものが弱いものをいじめる世界」よりも「強いものが弱いものを助ける世界」のほうが生きやすいと感じるのは私だけだろうか。
本当のところはきっと、弱そうなものに強くふるまうひとは実は「強く」はないのだろう。その人なりの生きづらさや、抑圧を感じるからこそ他者にやさしくなれないかもしれない。だからといって「いじめ」が許されるわけではない。

他人をジャッジして、「当たり前」を押し付ける生き方は、自分自身にとっても「当たり前から外れてはいけない」という抑圧になって返ってくる。だからこそ、他人に対して想像力をもって、「違うこと」を受け入れ、だれもいじめない人が増えていけば、このような悲しい「ポテサラ事件」もなくなっていくのではないだろうか。